1906年の今日、つまり10月20日は坂口安吾の誕生日です。
わたしは坂口安吾がとても好きです。しかし不思議なことに彼の作品の中にはどうしても受けつけられない嫌な作品がまれにあるのです。なぜそういうことが起こるかというと、あまりにも彼が好きなので、自分の思考と作品から読みとれる思考に少しのズレが生じただけでも、残念な気持ちになるからでしょう。それほど彼の思想に影響を受けていているようです。
サイト運営の便宜上、サイトの運営者はとても気のいい人のように見えるかもしれませんが、それは錯覚です。サイト上のテキストは確かに正直な気持ちが入力されていますが、私からしてみれば読者の方と距離を持った文章になっています。もし、わたしがあなたとの距離を本当に縮めようと便宜を放棄し本気でテキストを作成したなら、きっととんでもないことになるでしょう。それ以上のテキストを書く勇気はこのサイト上ではほとんど存在しないものと思ってもよいでしょう。本来求められているものは、そういうものだと肌では感じますが、それほどの文章を書く場でもないという思いがあるのがいけないのでしょうか。
大きな乾燥させた瓢箪を竹でカンカン叩きながら愉快に闊歩することをしたところで、眉間に皺を寄せる読者の方がそれに賛同してくれると思っていません。それほど、読者を信用していない面があり、それがいまこの世界を創っているのだと思います。それに気づく人はたくさんいますが、やはり利便を考えてしまうのか、まるで見えないかのように避けて前に進む人が多いのも事実でしょう。大きな乾燥させた瓢箪を竹でカンカン叩きながら愉快に闊歩できる人を探しているのではなく、それができない人をいつも探して一緒にそれをしようとしたいと思っているのです。
それはさておき、安吾は2年ほど前(1年ですか?)生誕百周年を迎え、安吾を愛するファンの方や所縁のある方によって祀りごとのようなものが行われたと聞いています。毎年そのようなイベントはあるとは聞いても実際に参加することもなく、風の便りを耳にするだけです。
数年間、坂口安吾の作品を読んでみてほしいと勧めていましたが、読んだとは聞くことはあってもそれ以上親密な話をする友(この場合ソウルメイトだと思います)は現れませんでした。今となってはそんなこともどうでもいいことになりました。
何度も何度も、「全く安吾の作品を読んだことがないので、そこまで安吾が好きなんだからお勧を教えてくれないか。」と聞かれますが、新潮文庫の「白痴」がすぐに手に入るから読んでみるとよい。という勧め方がいけないのかと思います。「安吾全集を買って全巻読破してみてはどうか。」と言ったところでそれを信じて読んでくれる人が何人いるのか疑問で疑問でしょうがないのです。じゃあ、ちくま日本文学全集の坂口安吾がよいので読んでほしいと思っています。
筑摩書房 のちくま日本文学全集(全30巻)は非常にツボな作家のチョイスをしているのでとても好きな全集の類のひとつです。非常にどうでもいい話になるかもしれませんが、表紙も素敵ですね。もしこの全集を自分の子どもが全巻読破したなんていう日には、親類を集めて祝い事をしたいほどの喜びを感じるだろうなと思います。ただの30冊だと思うかもしれませんが、自分の子どもが私の言葉を信じて30冊本を読んでくれる喜びがどれほどの価値があるものか、そこのあなたは想像できますか?
もう、坂口安吾を人に勧める気はほとんど起こらないのですが、もし気になる人がいたなら、坂口安吾デジタルミュージアムを見てみるのもよいかなと思います。本は買わなくても、青空文庫で読めますが、本当は本を手に持って、紙に印刷された文字を目で追ってほしいのです。そして、心に残る言葉があればその文章に線を引いてみてください。新しい気づきが生まれるかも?!
【写真】 誕生日ケーキを手作りしてみましたが、どうやらわたしはこういうことがあまり得意ではないようです。